無謬の問題―近代身体論

 国語の教科書を単に“読み物”として通り過ぎるのとは違って、まさに現役の学生がそれを学習しなければならない時、意外と理解しにくい論旨という意味合いとは別の、甚だ理解しがたい論旨に出くわし、授業というかたちでそれを無情にも受け入れなければならぬことが、しばしばある。
 こういった場合は、忍耐と寛容な受け身が必要である。が、その一方でその論旨を批評しつつ独自で新たな論旨を設けてみることも、学習の一つであろうと私は考える。

 2009年筑摩書房発行の高等学校国語科用『国語総合―改訂版』の現代文編「評論二」では、三浦雅士著の「考える身体」がある。おそらく本文は同著『考える身体』の一箇所を抜き取ったものであるため、著者の総論的な論旨にはなり得ないが、私はこれを読んで違和感を覚えた。

「ナンバ」についての議論

 以下、教科書用に抜き取られた文章の冒頭を引用してみる。

《昔の日本人は今の日本人とは違った歩き方をしていたというと、たいていの人は驚く。昔の日本人は、手足を互い違いに出す今のような歩き方はしていなかった。右手右足を同時に出す、いわゆるナンバのかたちで歩いていたのである。腰から上を大地に平行移動させるようにして、すり足で歩いていた。いまでも、能や歌舞伎、あるいは剣道などにはこの歩き方が残っている》

 何故昔の日本人がこのような歩き方をしていたかについて、著者はその次の段落で、生産の基本が農業、それも水田稲作にあったからとし、稲の生育を注意深く見守るためには、走ったり跳んだりすることは無用だった、と説いている。

 まず私は「ナンバ」という言葉を知らなかった。不思議なことに、とても親切丁寧な注釈が欄外に多いことで知られる筑摩書房の国語教科書であっても、この「ナンバ」が注釈になかった。確かに本文の中で「右手右足を同時に出」して歩くことの意が示されているようだが、語の出自、語源が注釈にもないのは不自然である。

 この「ナンバ」とはどんな意か。

 岩波の『広辞苑』(第六版)で調べると、「南蛮(なんば)」の語にそれがあった。
《歌舞伎や舞踊の演技で、右足が出る時右手を出すような、普通とは逆の手足の動作。樏(かんじき)や田下駄をナンバと言い、これを履いた時の所作の意か。右手と右足、左手と左足とが、それぞれ同時に前に出るような歩行の仕方。「――走り」》

 三省堂『大辞林』(第三版)では「なんばん【南蛮】」にこうある。

《歌舞伎、日本舞踊で右足を出すとき右手を振り上げ、左足を出すとき左手を振り上げるような歩き方。なんば》

 歌舞伎の「六方」がまさしくそれで、「六方を踏む」という言い方がある。しかしいずれにしてもこれらはすべて歌舞伎・舞踊・武術の特定の所作を指しており、三浦氏が断定的に述べる“歩き方”、つまり昔の日本人の物理的移動行動としての二足歩行の動作を「ナンバ」と指しているとすれば、それは誤解であろう。さらに言えば、すべての大地で摺り足歩行をすることは到底不可能である。

 広辞苑で述べられているように、もしそれが樏や田下駄からくる語であったとすると、確かに頷ける。あれを着用して雪上や泥土を歩行すればそのような動作に近くなる。また、私も剣道を習っていたので剣道の摺り足の所作はよく知っているが、そもそも竹刀を両手で掴んでの所作のため、「右手右足を同時に出す」のとは根本的に違う。まして、袴を穿いているから摺り足になるのでもない。それは稲作の場合も同様で、両手は農具で塞がれているだろうから、「稲の生育を注意深く見守るため」に、「右手右足を同時に出す」ことは実際的に行われていないのだ。

 では何故このような誤解が生じるのか。

 歩行の際、どちらかの片足が前へ出る動きと連動して、腰部からの上半身の「傾き」が同じく前に出るかたち――というのがどうやら「ナンバ」の本当の動作であるらしい。
 実際に自分で歩いてみると良く理解できる。
 一般的な歩き方の表現では、よく「右足が出る時左手を出す」という手足の逆の動きを指すことが多いが、実は二足歩行の場合、手(むしろ腕の問題だが)の動きは関係ないのだ。(人が人をおんぶして両手を振ることができなくても二足歩行できるのはそのため。)腰部からの上半身の「傾き」が前へ出る片足とは逆向きになっている、という表現の仕方が正しい。
 手(腕)の動きは、足と上体の傾きの動作に相応した振り子同然であるから無視してかまわない。二足歩行について、このことが意外と知られていない。仮に、手(腕)の動きをどう出すか意識し始めると、たいてい人は足を前へ出すことが困難になる。実際にやってみるとわかる。これは演技の基礎でも舞踊の基礎でもそうだと思う。もともと人の脳は歩行の際、本能的に手の神経をコントロールしていないから、手を意識し始めると途端に本能的なコントロールが立ち行かなくなってくるのだ。「ナンバ」歩行にしても一般的な歩行にしても、手(腕)の動きを一切意識せずほったらかしにして、足の動きのみに集中すると、自然にそれぞれの歩き方で歩くことができる。

 「ナンバ」歩行の必然性の定義は、よくわかっていないとみていい。職業柄、仕事の上で身体の動きがそうなるという場合以外、その歩行の必然は見当たらない。
 江戸時代の飛脚が「ナンバ」走りをしていたという説があるが、仮にそうであったとしても、荷物を抱えて手が塞がっていた飛脚が、足と合わせて手を振ることは不可能なはず。歌舞伎の六方しかり、稲作しかり、剣道しかり。むしろ彼らは手を動かしていないどころか、そういう所作を個人的な私生活の中で実践しているとは思えないのだ。
 三浦氏の言う“昔の日本人”の歩き方という括り方は、当然、総体的にそうであった意であるわけだから、何故「南蛮=ナンバ」といったある意味における蔑称が、総体的な日本人の歩き方を称して用いられたのか、それも不可解になってくる。詰まるところ、総体的ではなくて、ある特定の、ある特有の日本人がそうであった、としなければならないのではないのか。

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