無謬の問題―近代身体論

近代身体論

 別の箇所も引用してみる。

《昔の日本人はと言ったのは、むろん、今の日本人は西洋人と同じ歩き方、同じ走り方をするようになってしまったからである。というより、いまや、世界中どこでも同じような歩き方、走り方をするようになってしまったのだ。産業革命以降、生産の基本が、農耕でも遊牧でもない、工業に移行してしまったからである。言ってしまえば、産業革命は均質な商品だけではない、均質な身体をも大量に生み出したのである。学校、軍隊、工場は、そういう身体だけを必要としたのだ》

 三浦氏の別の文章の中では、「水田稲作型の身体」「工業型の身体」という驚くべき言葉が使われているが、彼は産業革命以降における日本人の身体が、わずか数世代の間に、急激に「水田稲作型の身体」から「工業型の身体」へと変わったとしている。

 先述した「ナンバ」でもわかる通り、“同じ歩き方”“同じ走り方”のそれぞれの言葉が、日本と西洋とを比較した意味での社会的倫理を指した「比喩」ではなく、まさに個人のそれ自体を指していることは踏まえておかなければならない。
 そこで彼の論旨に着目する。物事の論旨の大小で言えば、当然、日本の明治維新以後の近代における、例えば富国強兵であるとか殖産興業に伴う大工業化時代の身体論が語られるべきなのだが、三浦氏のこの文脈においては、非常に微々たる問題としての“歩き方”と“走り方”の差異の方が優先されている。彼の導き出す論旨が、日本人の「均質な身体」の是非と中核の問題を素通りして、人間の歩行に関わる所作の変化といった微々たる問題に集約されてしまうことに気づかされ、ここにも私は違和感を覚えた。

《近代になって、意識と身体は画然と分けられた。同時に、五感とその領域も鋭く分割された。視覚の領域には美術が、聴覚の領域には音楽が配分された。そのいずれにも関わる舞踊や演劇は、いささか曖昧な芸術としてさげすまれた。身体の領域はただ健康の問題、医学の問題へと差し回されたのである。そして、ひたすら健康の技術に関わるものとして、保健体育の思想が登場したのだった》

 ここでの論旨では、近代、意識と身体は何者が分けたのか、それが個人であるのか社会であるのか、あるいは国家であるのか西洋であるのか判断しにくい。それらがどう「分けた」のかという核心部分も曖昧である。果たして、五感の領域を分割するとは、具体的に何を指しているのか、どういう意味なのか。

 岩波講座『日本通史』[近代Ⅰ]の論説の中に、牧原憲夫著「文明開化論」というのがある。その第一章「公と私―身体の開化」では“均質”という語が出てくるので、その一部を書き出してみる。

《均質な国民を形成するには、身分制の撤廃だけでなく特定の集団だけに認められた特権を廃止し、また、すべての土地を国土として均質化しなければならない。賤民制廃止令に先立って、街道の里程に被差別部落を算入しない不合理が指摘され、皮革業の「独占」が非難されたのはこのためである。そのほか、仇討のような自力救済や村・寺社等の自治的裁判権、神官の世襲、各種の家元制、女人禁制等、身分・職能や地域集団の慣行的権利を否定する布告がつぎつぎに出された。中間団体の多様な自律性を少なくともいったんは否定することで、国家ははじめて国民と個別的かつ直接に掌握できた。もとより政府も、各人の風体が私的な問題だと認識してはいた。外国人の場合、乗馬で通行人を転倒させるような「他ノ安静ヲ妨害」したときはともかく、身体への「刺繍」や「裸体、或ハ婦人断髪等ノ如キ、其一身ニ止リ候儀ハ、素ヨリ国法ヲ以テ異邦人ニ及ス可キノ理ハ無之」と司法省は指令しているにもかかわらず国民の裸体を熱心に取り締まったのは、これが民衆の意識改革の突破口になるとの判断があったからだと思われる》

 このように端的に考えれば、「均質な身体」の獲得と「意識と身体」の分離は、文明開化の疾走を加速させるべく、文武両面からの制度の変革によってもたらされたものであって、「ナンバ」歩行の変化の次元の問題でも、「水田稲作型の身体」から「工業型の身体」への変化といった問題でもない。

 「均質な身体」(均質な国民)の獲得とは、幕藩体制の「個」から明治維新後の「公」の人になる変革の途を意味した。近代日本におけるSocietyの概念はここから芽生える。すなわち、「意識」の中の「公」及びSocietyの概念が「身体」を疎外させ、あるいは概念的に喪失させていった。ただし、これは近代に限った話ではない。

 三浦雅士著「考える身体」で述べられている、《だが、いまや近代の全体が問い直されているのである》=考える身体の再認識・再構築の結論と定義は、言うなれば、「我が日本人は身体であった」と茶化して述べているのとほぼ同じ内容なのである。

〈了〉
(2010.12.08)

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