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私はうっかり惑わされるところだった。時代のうねりと、その者の偏屈な意志とに…。男は、自身の悪質な病巣を、私に感染させようとした。そうすることで自身の命は伸び、その苦痛から解放されると信じていたからだ。
だが、私は強固な意志でそれをはねのけた。これ以上、惑わされたくなかったのである。
その者の人生の大半は、他力とは無縁の、世の中に対する反抗と、己の中の情愛を否定するような寂しい、肯定を否定に変えてしまう。男はあらゆるもの―私生活と社会―を否定してみせた。そして苦悩した。その挙げ句、男はとうとう自分の存在すら否定してしまった。
その瞬間から男は死んだのだった。完全な終焉を迎えたのだ。だが男はその事に気づかず、尚も呑気に生き続けた。もちろん男はこの世にいないので、誰も男の存在を知らなかった。男はそれで再び傷つき、悩み苦しんだ。死人のくせに。
或る日、彼は子供を否定した。子供という存在、無垢で純粋な子供を頭部から見下ろしてみせてくれた。だが、彼は大人だったわけではなく、やはり彼も無垢で純粋な子供だったのだ。
私はとうとう彼を見る機会を失ってしまった。彼は姿を隠しているに違いないが、私は彼の姿を見なくとも、彼がそこにいることに気づいてしまった。私はその事にたいへん後悔し、落胆した。見えぬものが逆に見えてしまうほど彼の行動は、子供じみた狭苦しい抵抗だった。実に辺鄙な抵抗だった。
私が嘲笑した裏に秘めた真意は、到底彼に通じるわけでなく、それらの語り合いは吐き溜めに嘔吐するだけの無駄なものとなって消えた。
「相手の心が手に取るように見えれば、挫傷することなくお互いに理解しあえるのだろうか。もしそうだとしたら、そんな能力なり機能をすぐにでも手に入れたい」
男の切々とした口調の中で語った言葉は、私の脳裏を浮遊して、結論を出せなかった。だが彼は、愛することに疲れたのではなく、これからの旅の出発を迎えたのだった。その旅立ちは実に彼らしい堂々としたものだった。
「人間はいくつもの顔を持っている。それは内側の心のことを比喩しているのではない。まさしく表面に張り付いた顔のことを指しているのだ。時に人間は、いくつもの顔を先取し、その場を切り抜ける。もし私の目の前でその人間の真実の顔を見ることができたとしても、それは幸福とはならない。むしろそれは、心臓を握り潰すような痛みとなるだろう」
〈了〉
(1992-1996)

