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私は中学生の頃から、TVや映画以上に演劇に興味を持ち、年に数回東京の劇場に足を運びだした。自分の意志で観た最初の芝居は、日本橋・三越劇場で行われた文学座公演『怪談・牡丹燈籠』だった。主演は杉村春子さん、北村和夫さんで、たいへん素晴らしい演技で、私はこの作品から本格的に演劇にのめり込んだ。TVや映画とは一味違い、観客と俳優が非常に緻密な距離にある中で、俳優の繰りだす見応えある芝居が生で味わえるというその臨場感は、演劇だけにある特権である。そして何といっても演劇の強みは、出演者とスタッフの共同作業によって生まれるアンサンブルの美しさを自由自在に引き出せるということである。それは物語の面白さや役者の演技以上に大事な要素であろう。私はそんな表現の一つの手段としての演劇に虜になったのである。
そうして今回、千代田祭で催された公演『青鬼の持って来た砂時計』に出合うことになった。三時間という長丁場でありながら、テンションを落とすこともなく、最後まで演じ切った出演者の人たちは、相当の練習を積んだことと思う。
実をいうと最近、私は地元で劇団を旗揚げすることになったグループと合流して、現在その旗揚げ公演のために毎週練習に励んでいる。公演は当分先になりそうなのだが、男女十数名の劇団員でありながら、一人一人真剣に取り組んでいる。そういった私事があって、『青鬼の持って来た砂時計』を観たわけだが、どうしても客観的に見ることができず、自分たちの劇団のこれからを合わせ鏡のようにして鑑賞してしまい、なかなか素直な気持ちでとらえることができなかったのが残念なのだが、演出やアンサンブルの点で色々と参考になるところがあった。
特に自分たちの劇団の在り方で参考になったこと、それは、〈役者がどんな芝居をやれば良いのか〉ということではなく、その芝居で〈役者がどんなものを観客に訴えることができるか〉という点であった。それぞれの頭の中にある演劇に対してのポリシーを吐き出してみたところで、またそれを混ぜ合わせたところで芝居ができるわけじゃないし、この芝居が観客にウケるかこだわるよりも、もっと根本にある作品のあるべき姿を表現することの方が大事だと私は思う。
『青鬼の持って来た砂時計』で、力を抜いて一つの作品を制作することを思い知らされた。
〈了〉
(1992)

